なぜ長浜で漆の木を植えようとしているのか

なぜ長浜漆プロジェクトに取り組むのか

数年前から長浜に漆の木を植える活動に取り組んでいる。

今から70年以上前の1950年代まで、長浜市北部にある余呉地区には漆の木が数多くあり漆掻きが行われていた。(漆掻きとは漆の木から漆の樹液を採取すること)

そのことを知った時、長浜の余呉で採れた漆を使って漆の作品づくりをしてみたいと思った。

今から9年近く前のことだった。

いろんな人に余呉の漆のことを尋ねて歩いた。

畑の周りや田んぼの畦、川べりなどに漆の木があったことが年配の人の話からわかった。

夏場には漆掻きの職人が泊まり込みで余呉にやってきて漆を採取していたという話も聞くことができた。

しかし、漆掻きが行われなくなると漆の木は次第に切り倒されて徐々に姿消していった。

 

なんとか漆の木を見つけ出して漆掻きをし、長浜の余呉で採れた漆を使ってみたいという想いは変わらなかった。

植物に詳しい人や余呉の民俗に詳しい人とともに漆の木を探しに何度か出かけた。

何本かの漆の木を見つけることができたが、作品づくりに使えるくらいの漆の樹液を採取できるほどではなかった。

余呉の漆を使って作品づくりをしてみたいという想いはあったものの、作品づくりができるほど漆が採れないのならという思いもあり、実際に漆掻きを行うことはなかった。

今から思うとこの頃は、自分の作品に余呉漆を使って自分の作品の付加価値を高めたいという思いが強かった。

それから数年間、余呉漆に関しての活動を行うことはなかった。

しかし、自分の価値観の変化や漆の仕事を取り巻く環境が大きく変わってきたことから余呉漆の復活を強く願うようになってきた。

 

長浜には室町時代にはすでに常喜椀という漆器が作られていた。

江戸時代には曳山の装飾にも漆が塗られるようになり、その頃から仏壇にも漆が塗られるようになってきた。

昔から連綿と受け継がれてきた長浜の漆塗りの技術。それが今、存続の危機に瀕している。

昭和の初期に常喜椀の生産が途絶えてからは、仏壇の漆塗りの仕事が長浜の漆塗りの技術を守り伝えてきた。

現在は、その技術で曳山の修理も行われている。

 

生活環境の変化や価値観の変化にともない、仏壇の漆塗りの技術が存続の危機に瀕している。

このままでは十数年もすれば長浜で漆の仕事に携わる人間がいなくなってしまう。

全国的にも漆の仕事は衰退が激しく産業としての存続が危惧されている。

今までは全国各地に存在した漆の仕事に携わる人間も限られた地域にしか存在しなくなるのではないか。

漆の仕事をすのであれば、尊敬できる師匠や切磋琢磨できる仲間がいる輪島や京都などのほうがいいのかもしれない。

長浜で漆の仕事をする理由があるのか?

将来、長浜で漆の仕事をする理由があるとすれば、材料としての良質な漆を手に入れることできることが大きな要因になるのではないか。

長浜に漆の木が多く存在したら、地元の漆を使って漆の仕事をしてみたいという人間も現れてくるかもしれない。

その人が長浜の漆の文化を受け継いでくれるだろう。

だから長浜に漆の木を増やしたい。

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昭和38年(1963年)滋賀県長浜市生まれ。 漆塗職人をやってます。お箸お椀から建造物の漆塗りまでオールラウンドにこなします。日本一の漆バカを目指し、日本初のうるしエバンジェリストとして漆の魅力を広く伝えていきます。

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